昭和四十年十二月二十二日 朝の御理解


 昨日の朝の御理解を頂いて色々に考えた。皆さんも色々心に練っておられたことだと思う。どういう答が出たでしょうか。
 一生懸命信心するけれども、おかげが受けられん。どういう信心さして貰うたらおかげが受けられるだろうか、どういう信心さして貰うたらおかげが受けられるじゃろうかではいけん。こういう様なことではこういう様なことがあってはおかげの受けられん筈だと云うものを自分の信心の中から頂いてそこを信心の中から頂いてそこを取り組んでいかなければおかげは受けられない。
 日々お取次を頂いてお願いをさせて頂くと、成程その事はおかげ頂いとるかの様に見えるんだけれども、五年十年振り返ってみて果してどれだけのおかげを受けて居るかと云うとたいしたことない。ある程度のところまではおかげ受けとるけれども、それから先はギッチリおかげにならん。根本的な助かりと本当、いわばおかげと云うものがです、信心さえ信心をどういう信心したらおかげ頂くじゃろうかと云うのではなくて、こういうことではこういうものがあってはおかげの受けられん筈だと云うものを先ず自分の信心の中から分からして貰うてそれを取り除いていくとか、カバーしていくとかそこんところに精進焦点を置いての信心でなからなければならんと云う意味のことでございましたですね。果して私共の信心の何処がおかげの受けられんのだろうかと色々考えてみたんです、ね。
 私を始め椛目の皆さんのことを色々みんな色々思うてみた。アーあの人は口ばっかりだからその人自身が、アー自分は口ばっかりの人間だなあと気付いて、口と内容とが伴った口で言いよんなさることが実際に思い、でける様になられた時がおかげが受けられるんだなあと云う様な風に思うてみた。ハハアー一生懸命に信心がでけようけれども信心はでけよるけれども、でけようが様に見えよるけれども実意丁寧かの様に見えよるけれども神様にピリッと貫く様な突き通す様なものがない。漠然と成程信心もしござる、実意丁寧でもあるごたるだけ、云うなら蛍の光を一千匹も万匹も集めとる様なものじゃ、何とはなしにぼんやり明るい程度であって、あれではあっつもなからなければひとつの紙一枚でも貫き向こうへ通すことが出来ん。線香の様な火でも紙の表裏が貫き通せれる。触ればあっつと云う様なもの、そういう様なものが欠けておる。一番多いのは信心はでけとるけれども実意丁寧がない。実意丁寧であっても信心が無い。これが一番多いごたるですね。信心はでけとるけれどもそれこそ人の真似のでけんごたる修行でもするけれども、そのしておることを言うておること。全然実意がない、横着、わがまま、もうこういう信心はです、山伏的な信心とでも言おうか、荒行なら荒行と、表行なら表行と云うことはです、それは人のびっくりする様な修行もやってのけるけれども、言うたりしたり行うたりしてる、おることがです、全然実意を欠いてしまっておる。神信心がでけても実意がない。実意丁寧さと云うものがない。わがまま、横着、人に懲りばーっかり積ませておる。
 人間が穏やか、成程実意であり丁寧であり、けれども神信心の方がでけんと云う人もある。実意丁寧神信心、もうお道の信心はここに絞る以外にない。自分な毎日お参りがでけて朝参りさせて頂いてと云う人がです、いわば信心がでけとるけれども、言ったりしたり行うたりしておることがです。
 昨日私現場から返って来た人達の話の中からです、椛目からああして毎日出て来て貰うとよかけれども、中にはえばりたくってから、あげなつが来て貰うと他の職人共に非常に反発を感じさせてから困る人がある。実意丁寧は何処にあるやら、自分が仕事のことが分かりばするごと、それっこそ椛目から行ったら職人さんの一人一人に御苦労さん御苦労さんですねと頭を下げて回るくらいの実意丁寧さが要るんです。それが椛目から来たつはまるで俺監督で来とるとぞ、俺は椛目ではよかつぞ、言わるるならたついとを取られて又大工どんが又あん奴が来たというてからいよるのがおるち。私それを聞いてからですね、本当に椛目の信心がおれは本当にお互いがです、一人一人を検討してみなければいけんと私は思うた。椛目から毎日三人四人見えるがどの人を見ても、成程信者ばかりのやはり御造営らしい。成程ああいう人達が居るならこれが出来る筈だと言う様なものがです、信心のない者にでも感じられるくらいなものはなからなければいけんのじゃないかと私は思うた。
 私に言うてくれと言わんばかりに言って言われた。その人達はです、神信心はでけておるけれども、実意丁寧がないと云うこと。横着だとわがままだと人に懲りを積ませることおびただしい。人が元気な心が出とるとをです、返ってそういうひとつの志気がでとるものをかえって反対に衰えさせる様な言動、如何にも実意丁寧かの様に見える。言うことも優しい、態度も頭が低いけれども、それが蛍の光のような「   」であってはたいして神様に通わないと云うこと。
 金光様の御信心はどこまでも実意丁寧神信心がひとつになって、しかもそれに神様の心を貫き通る様なもの、こういう風にです、昨日の朝の御理解を頂いてから思うたり感じさせて頂くのですけれどもです、成程おかげが受けられんのは先ずこれは椛目全体としてです、これではおかげは受けられんなと云うこと。これではおかげが受けられんなと云うことが分かったらその事に取り組んでです、自分の信心と、信心と実意丁寧とがひとつになってしかもそれにひとつの熱意と云うものが触ればあつっと云うものがです、かえってない。これではおかげの受けられる筈はないと云うことを先ずは分からなければならん。これは又個人個人に云うたならです、色々あるでしょう。自分は人間が冷たいもん、人間の根性が悪いもん、大体人間が汚い、自分なだらしがないもんと、例えば個人個人で云えばそういうものがあるでしょう。
 自分な誰よりもずるい。自分な誰よりも汚い。腹と口とが違う。銘々云うなら銘々そこがあるでしょう。だからそのことにいわばおかげの受けられない、これではおかげが受けられないと云うそれに取り組んでです、おかげを頂いていかなければならん。
 実意丁寧神信心、これを完璧なものとして私共にお示し下さったのが教祖の神様であり二代様であり私共がまのあたりに見たり聞かして頂いた前三代金光様だと。ですからその教祖の神様、歴代の金光様の御信心に神ならわして頂くと云うこと。
 信心とは金光様の御信心とは、拝むことが上手になるとか、教学的なことが勉強がでけて色んな理屈が分かったと云った様なものではなくてです、何処までも実意丁寧神信心にならせて頂くと、私の信心が先ず分かること。横着を取り除かせて頂くことに本気にならせて貰い、しかもそれにはです、触ればアツッと云う様な感じさせる様な人にでも神様にでも紙の表裏が突き通せられる様な生き生きとした信心をさして頂くこと。これが欠けているんですもの。第一成程おかげが受けられん筈だと云うことです。
 皆さんが日々お取次を頂いて只おかげを頂きよりますと云うのがです、何十年続いたってそれだけですよ。ここんところに思いを置かせて頂いて、お道の信心振りと云うものが心の中に、家の中に溶け込んで行くと云う様なおかげを頂かして貰わなければならん。
只その雰囲気の中にあるのだけではおかげになりません。その事に本気で努めさせて頂いて初めて自分のものになると私は思うですね。どうぞ。